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むげつ/有月

by 丹宗あや

 空いた空いた。

 東京を出て乗り継ぎの大きな駅を過ぎ、ベッドタウンをふたつみっつ過ぎるとこの快速は各駅停車になって、ようやく私も座れるくらいに余裕ができる。本当はもっと早く席は空くのだけれど、疲れたオジサン達の座席争奪戦に、仕事帰りの力ない私は視線で棄権を知らせることしかできない。同じような棄権者のもっと疲弊して肩を落としたおじさんと目が合って、咄嗟に視線を逸らす。私もああやって、干からびていくんだろうか。

 今日もまあ座れたのでよしとして、スマホのニュースアプリを起動する。一般常識がないと叱られないように主要トピックくらいは目を通そうと思うのだけれど、ひと見出し読んではため息が出てきてちっとも進まない。貿易戦争より国会の野次より、パワハラ上司とか残業とカロリーメイト三昧で粉吹いちゃいそうな私の肌の方が余程切実な問題だ。だから働き方改革なんてどこの話、な私の前に立ってそんな目で見ないでよ。そういうワンカップの酒っておいしいの、おじいちゃん? てかここ電車だよ? 酒臭いってば、気持ち悪いよああもう。

 駅から徒歩十五分の家まで、目指さなくても慣れた足が自動で運んでくれる。冷たい風にあおられながら、コートの裾が足にぶつかってばさばさと音を立てる。目を落として舌打ちしたところを、たった今追い越していった自転車に振り返ってじろじろ見られる。一番下のボタンがひとつ、取れていた。大学時代、就活を見越してちょっと奮発した元お気に入りコート。最近は袖の内側もほつれ始めてそろそろ限界のご様子、ボーナス出たらブーツと一緒に新調しなきゃ。使う暇ないくらい忙しいはずなのに、どうして通帳の中身は一向にたまらないんだろう。

 だだっ広い駅前のターミナルが真っ暗な夜空に向かって開けているけれど、見上げた空に月は見えない。駅前にひとつだけぽつんと立っているマンションの後方に、ぼんやりと明るく広がる光だけが見えている。丸か、あるいは丸に近いくらいに膨らんでいるみたいだ。曇っているのではなくて、霧がかかっていた。よく見るとタイル張りの地面が濡れていて、私がつくまでに雨が降って止んだらしい。街頭の明かりも家々の窓も丸くぼやけていた。

振り返った駅の反対側、市民公園の森も絵のように輪郭がぼかされていて、目の前の帰路もどこか知らない場所への一本道のように思えた。

 そうして少しうきうきしてきた私は、一瞬にして凍りついた。右手にぞっとするほど冷たいものが触れたのだ。何だろう、怖い、だけどなんだか知っているような気がする、思い切って隣を見ると、そこにはとても懐かしい人が立っていた。

「どうかしましたか、つぐみさん」

 その声に、心の芯がびりびりと震える。そこにいたのは慎次君だった。

 触れるだけでこんなに悲しくなるほど冷たい手の持ち主を、私は他に知らない。不思議そうにこちらを眺めている顔も私を呼ぶ声も、冷え切ったその手も、五年前と全く変わっていない。疲れた私のよりも全然綺麗なすべすべした肌とか、ジャケットの下のシャツから覗く鎖骨とか、大好きだったそういう些細なことまで大学の頃とひとつも違わない。どうして慎次君がこんなところにいるんだろう。

「僕もまだ歩きたい気分だし、散歩でもしませんか」

「散歩って、どこを?」

 こんな家しかない街の、どこを歩くっていうんだろう。

「ちょっと歩けば公園がありますから、そっちの方まで。行ってみませんか」

 そんなこと言ったって市民公園まではかなりの距離が、そう思って私はようやく、ここが霧に包まれた神楽坂であることに気がついた。思わず声を上げそうになりながら、慎次君に手を引かれて足は勝手に進み出す。街路樹から行き交う人々の様子まで、どうも見たことがあるような気がする。

 きょろきょろしながら坂を下っていって、ようやく思い出した。きっとそろそろ、

「つぐみさん、ちょっとこっち、見てください」

 急な坂を中心に何本も入り組んでいる路地のひとつの前で、慎次君が足を止めた。私達の今立っている歩道の先は石畳になっていて、この奥には料亭やら和雑貨の店やらが点々としている。

「うん、こっちには」

「ガス灯があるんですよ、ここ」

 そういって赤々と燃えるガス灯を指す慎次君の指で、私は確信した。これはあの日、私と慎次君の三回目のデートの日だ。講義が終わる時間に待ち合わせて、おまんじゅうを出すカフェで一杯だけワインを飲んだあの後なのだ。その証拠に、まだ新品のコートのボタンは何事もなかったように全部揃っている。空いている左手で触れた私の頬も、しっとりと指に吸いついて確かな弾力を返してきた。

「あれ、もしかして知ってました?」

「ううん、素敵だね、今時ガス灯なんて」

「ここを入って右に曲がったところに、喫茶店があるんですよ。看板は知ってたんですけど、この前ようやく場所がわかったんです」

 今度一緒に来ませんか、と誘われたカフェも、五年後の私は知っていた。うん、と答えた声が、五年前と同じように疑いのない幸せに満ちていたか、少し自信がなかった。

 ガス灯をしばらく黙って見つめていた慎次君は、また歩き始めた。秋風に押されるように坂を降り、飯田橋駅を過ぎて教会の前を通る。オフィス街を相手に昼間は賑わう飲食店もほとんど店じまいしていて、死んだようにしんとしている。金木犀の香りが漂ったけれど、どこで咲いているかは結局わからずじまいだった。駅の方の居酒屋だろうか、時折騒ぐ声が響く中を、あまり言葉も交わさずに歩いた。靖国神社を過ぎ、歩道橋を渡って私達はあの日と同じようにこの公園に辿りつく。

「わりと広いですから、ちょっと入るくらいにしときましょう」

 小さく頷いて、私達は門へと足を踏み入れた。ふたりして自然と早足になる。あの日はお互い相手に悟られないように、それでも急かされるように何かを探していた。今日の私は知らん顔で、慎次君の後をついていく。

 二、三人とすれ違って人の気配が消えたころ、私達はようやく大きな平らな石に腰かけた。スカートの下の太腿がひやりとする感触に、わかっていても思わず身がすくんでしまう。慎次君の腕がおそるおそる私の背中に回される。あの日のように慎次君の胸にしがみつくと、きつく抱きしめられた。慎次君の緊張した鼓動につられているのは、どちらの私なのだろうか。

 慎次君の顔が近づいてきて、何度かキスしているうちに私は岩に完全に背を預けた。夜空に紛れてしまいそうなインディゴブルーのコートが、私を包んで守ってくれるのを背中で感じる。慎次君の唇はじゃれつくように何度も降ってくる。胸の痛みが止まらなかった。ずいぶんと久しぶりに味わう痛みだ。些細なことで慎次君と別れてから五年間、私は何度も恋をして、そのうちの何回かは恋人もできたけれど、こんなにも苦しくて悲しい気持ちになったことはなかった。慎次君が一番、好きだった。

 泣きだしそうになるのを堪えて、私は慎次君の髪に指を差し入れ、そっと背中を撫でた。慎次君は夢中になって私をいつくしんでいる。唇は次第に、首筋や胸元にも降りてきていた。私の髪を撫でている手は相変わらず冷たいのに、その口づけは温かかった。

 閉じていた目を開けて、彼の肩越しに紺色がかった真っ暗な空を眺める。この日はたしか真っ白な三日月が出ていて、月に見られている、そう思うと何ともいえない不思議な気分になって……

 私の体は再び凍りついた。月が、丸いのだ。橙に近いような黄色のまん丸の目で、私を見ている。

 慎次君の体はいつしか、ぬくもりを失っていた。私を撫でる彼の手にそっと指で触れてみた。背中の下の岩のような冷たさすら、彼の手からは失われていた。月はぴくりとも動かずそこにいる。

 ああ、待って、と思った時にはもう遅く、慎次君の体の重みすら私の上から消えてしまい、気がつくと私は家の玄関の前で馬鹿みたいに月を見上げていた。よくよく見れば月ですらなかったそれ、丸い玄関灯がオレンジ色の明かりでぼんやりと私を見下ろしている。その光が憎たらしくて、私は泣いた。

 ハンカチで涙を拭い去ると、私は玄関のドアを開けた。こんな夜中に、ふわりとした小麦粉の匂いがする。香ばしい、何かの焼けるこの匂いは何だっただろうか。思い出せないまま、リビングに足を踏み入れた。

 リビングから続くダイニングキッチンで、エプロンをかけた母がそわそわした後ろ姿をこちらに向けている。振り返った母の顔は何やら楽しそうで、目尻に笑い皺が何本も寄っていた。

「おかえり」

「ただいま。何してんの?」

 ふふ、と笑って母は体を横にずらすと、流し台の横に置かれた機械を私に見せた。

「あ」

「そう、久々に焼きたくなっちゃった」

 それは年代物のパン焼き機で、パン生地を作ったり、食パンならそのまま材料を入れれば焼き上げたりしてくれる当時の最新機種だった。子どもの頃、母がよくソーセージパンやパウンドケーキを作ってくれたけれど、最近は見かけなくなって久しい。

「それにしても、どうしてこんな」

「だって暇なんだもの」

 私が大きくなってからパートに出るようになった母には暇がなかったし、更年期でだいぶ酷い鬱に悩むようになってからは無論それどころではなかった。ようやく症状は安定してきたものの、パートも辞めてしまい、時間を持て余している母は再放送のドラマばかり見ている。

「お腹空いてるでしょ、ちょっと味見してみない?」

 母がミトンをした手で型を取り出し、まな板の上でひっくり返すと、ころん、とその上に食パンが乗った。

「そのままちぎって食べていいわよ」

 皿に乗せて渡された食パンをダイニングテーブルにおいて、椅子に腰かける。焼きたてのパンはかなりの熱を持っていて、なかなかちぎれない。ようやくちぎって口に入れると、耳はカリカリで、中がもちもちしていた。

「おいしい?」

 尋ねてくる母に、何度も頷いた。子どもの頃と同じ、焼きたてを頬張る幸せがじわりと広がってくる。母も向かいの椅子にかけて、パンをちぎり始めた。

「最近忙しいみたいじゃない?」

「元々忙しかったわよ」

「あらそう?」

「そうだよ。それにしても、パン美味しいね。懐かしい」

「うん、昔よりおいしい」

 母は満足そうに、うんうんと頷いた。

「え?」

「小麦粉はちゃんとふるいにかけて、時間がかかってもじっくり生地は発酵させて。丁寧にやれば丁寧な味になるものね」

 たしかに、目の前のパンは生地がきめ細かくてふわりと柔らかい。本当に美味しいけれど、さすがに幼い記憶の中の味とは比べようがなかった。

「なんでいきなりそんなこだわりを」

「昔より悪くなるだけでしょ、よくならなきゃ」

「そういうもん?」

「そういうもんよ」

 自信たっぷりに、母は頷く。頷いて、またパンをちぎって頬張った。

「悪くなる一方じゃない?」

「そりゃ、あんたの肌はそうかもしれないけどね」

「あ、やっぱり思ってた?」

「その年でそれじゃちょっとね。でも、パンはおいしいでしょ」

 そう言って、母は立ち上がると皿をキッチンへと持ち去った。

「あー」

「残りは明日の朝ごはん。ほら、先にお風呂入っちゃいなさい、お父さんが出たばっかりだからあったかいわよ」

 ぼこぼこになった食パンにパン切り包丁を当てながら、私にかけられるいつもと変わらない言葉。私は素直に従って席を立つ。

「あら、今日は珍しいのね」

「うん、さっさとお風呂入って寝る」

「あらあら、明日は雪かしら」

「うるさいなー。それより紺色の糸ってない?」

「裁縫箱の中にあるでしょ」

「ん、ありがとう」

 にやにやしている母に背を向け、浴室に向かう。前から歩いてくる父より先に、今日はただいまを言った。

 湯気の立ちこめるバスルームで、シャワーのコックをひねる。体の芯がじわりと温まっていく。何気なく見やった湯気の向こう、窓越しに月が見えた。霜が降りたように白い、丸くなりかけの月がしれっとした顔で私を見ている。

<了>

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